にしのみやデジタルアーカイブ・セレクション
となりの公園
ポカポカ陽気の日が多くなってきて、コロナ禍ではありますが外に出かけていきたくなります。西宮市内にも、むかしから近場でたくさんのお出かけ先がありました。ここではその一部を当時の写真で振り返ります。
お出かけの際は、くれぐれも感染予防をお願いします。
- お問い合わせ:西宮市総務課公文書・歴史資料チーム
- 鳴尾浜公園
- 1967(昭和42)年
- 昭和39年鳴尾浜公園の一角を利用し、児童公園ができました。子どもたちが遊びながら想像力を身につけられるよう、長さ15mのコンクリート製の汽車や市内初の大きな石山など変化に富んだ遊具がたくさん設けられました。
- 武庫川下流でのつり
- 1974(昭和49)年
- 武庫川下流で多くの人々が釣りを楽しんでいます。このあたりは昭和初期には阪神電鉄経営の武庫川遊園地として多くの人が訪れました。名物しじみ狩りをはじめ、春秋には運動会、夏は蛍狩りに花火など様々な娯楽が揃っていました。
- 交通公園
- 1970(昭和45)年
- 市制45周年を記念して久保町に建設された交通公園。子どもたちが遊びながら交通知識やルールを覚えられるよう、本物の信号機や道路標識が備えられました。待望の開園式は昭和45年11月4日に行われました。県警ブラスバンドの演奏、浜脇小学校4年生によるゴーカートや自転車の園内模倣運転など、にぎやかなオープンとなりました。
- 六湛寺町の広場にて
- 1960(昭和35)年
- 現在の市役所本庁舎西端にあたる場所です。お昼休みでしょうか。男性たちが広場で野球をしています。バッターボックスのそばには今は市役所本庁舎と市民会館の間にある「六湛寺」の道標。広場の奥には昭和30年代初頭に北名次町へ移転した如意寺の門がまだ残っています。
- 片鉾池
- 1954(昭和29)年
- 夙川公民館建設前の片鉾池を望んでいます。遠くにカトリック夙川教会の尖塔が見えています。 明治40年、香櫨園遊園地が現在の阪急電鉄夙川駅南西一帯に開設され、片鉾池には50メートルの高台から滑り降りて水しぶきをあげるウォーターシュートがありました。大正3年の香櫨園遊園地廃園後、その跡地は閑静な住宅街となりました。
- 甲山早朝登山会
- 1965(昭和40年)
- 昭和39年12月に始まった甲山早朝登山会は、市民の体位向上を目指して市教育委員会と市レクリエーション協会との共催で開催されました。 甲山は度重なる山火事で一部がはげ山になっていました。登山道はどの年齢層でも登りやすく、頂上からの眺望も大いに楽しめました。体操をする人々の背後には上ヶ原の街並みが広がっています。
- 夙川オアシスロード
- 1971(昭和46)年
- 当時、一日に4千台近い車が公園内の道路を通り、夙川を挟んだ沿道は、その往来による排気ガスや歩行者への危険性が問題となっていました。昭和46年8月に夏休みの1ヶ月だけでも子どもたちが思い切り遊べるようにと、夙川東岸道路の内、国道2号-香櫨園浜間の約1.3kmから自動車を締め出し、「緑の散歩道」として開放しました。
- 角間公園
- 昭和35年に整備された角間公園は、かつての字名から名付けられました。開設当初は広々とした園内に、すべり台、シーソー、ブランコなどの遊具が設置されていました。写真左奥に高須町の昭和電極工場が見えています。
- 武庫開公園
- 武庫開公園は、かつての字名から名付けられました。鳴尾消防署の火の見櫓が見えています。広々とした園内にはブランコ、砂場などの遊具が設置され、当時年々増加しつつあった自動車を気にすることなく、子どもたちがのびのびと遊んでいます。
- 網引公園
- 昭和36年に広場を整備し、当時としては市内で最も大きいモデル児童遊園としたのが網引公園です。公園内北側にはジャングルジム・シーソー・ブランコなどの遊具、南側には噴水・藤棚などをつくり、子どもからお年寄りまでの憩いの場となりました。
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