にしのみやデジタルアーカイブ・セレクション
西宮歴史資料写真展
市役所本庁舎1階では、「アーカイブ西宮」としておよそ2か月ごとにテーマを決めて市所蔵の歴史写真を展示していますが、このたび展示写真をまとめた『西宮歴史資料写真展』を開催します。
ここでは、写真展で展示される写真のうち「にしのみやデジタルアーカイブ」にも掲載されている写真をいくつかご紹介します。
- お問い合わせ:西宮市総務課公文書・歴史資料チーム
- 平松町のマンボウ
- 1925(大正14)年
- 谷崎潤一郎「細雪」に登場するマンボウです。かつてマンボウの中には子どもでも簡単にメダカがとれる澄んだ水が流れていました。そこにあぜ道のような小道がついており、農家の人が近道にしていました。道は整備されましたが、マンボウは今でも南北の往来に使われています。
- 省線西ノ宮駅前
- 1931(昭和6)年
- 戦前の省線西ノ宮駅前のようすです。西ノ宮駅は明治7年5月11日に創設されました。当初は陸上運輸唯一の門戸として旅客や貨物が多く集まりましたが、明治38年に阪神電鉄、大正9年に阪急電鉄が開通したことで近距離客はそちらへ流れ、貨物駅としての役割が大きくなっていきました。
- 国鉄西ノ宮駅
- 1962(昭和37)年
- 国鉄西ノ宮駅の南北に設置された貨物専用線での作業の様子です。昭和30年代、市内の工業生産高が急激に増加しました。明治7年の駅設置からほとんど変わらない設備では荷扱いが限界になり、昭和41年から貨物ホームの改良工事が行われました。
- 豊年製油鳴尾工場
- 1965(昭和40)年
- 大正7年に鈴木商店製油部工場としてはじまった豊年製油は、2度の空襲で工場が壊滅状態になりましたが、昭和24年に復興し、ベンジン抽出法を採用した国内唯一のメーカーとして名をはせました。鳴尾工場は昭和45年に閉鎖され、本社は味の素製油、吉原製油とともに現在、株式会社J-オイルミルズとなっています。
- アサヒビール西宮工場
- 1961(昭和36)年
- 昭和2年に「日本麦酒鉱泉株式会社」が建設した、のちのアサヒビール西宮工場は昭和20年8月の空襲で工場の大部分が焼失しましたが、終戦直後には復旧・製造再開し、昭和40年に世界初の屋外発酵貯蔵タンクを開発しました。近年は工場見学などでも人気の施設でしたが、工場再編に伴い平成24年8月に閉鎖されました。
- 甲子園口1丁目付近の廃線跡
- 1980(昭和55)年
- 阪神電鉄武庫川線は太平洋戦争中の昭和18年、現・高須町にあった川西航空機工場への物資輸送を主目的として建設が始まり、緊急性の高い武庫川駅-川西航空機工場間は100日余りの突貫工事で同年11月に開通しました。翌19年には武庫川駅から省線(JR)甲子園口駅を通り、西ノ宮駅に至る路線が建設されました。
- 須崎駅南側の廃線跡
- 1980(昭和55)年
- 武庫川団地前駅が開設される前の終点・洲先駅から南を見ています。現・高須町にあった川西航空機工場への物資輸送に使われた路線の廃線跡は、3本レールの「三線軌条式」になっています。これは車両幅の狭い省線貨物列車が車両幅の広い阪神電鉄に乗入れたためです。遠くには武庫川団地高層住宅が見えています。
- 旭工業 ミゼット製造ライン
- 1957(昭和32)年
- 戦後に事業転換が図られた川西航空機鳴尾製作所の企画室第二班は三輪自動車の製作を受け持ち、名称を「明和自動車製作所」としますが、経営難から昭和31年にダイハツ工業の子会社・旭工業株式会社となります。写真は初代ミゼットの製造ラインで、初代はバーハンドルでドアがなく、ランプが一つのバイクに近い車体でした。
- 出荷前に並ぶミゼット
- 1963(昭和38)年
- 旭工業株式会社が製造し、昭和32年に発売した「ミゼット」は空前の軽三輪ブームを巻き起こしました。ミゼットは小回りがきいて、小口荷物の運搬に最適なサイズが時代に合っていたようです。企業の営業車や郵便の収集車等にも多く利用されました。
- 内外綿株式会社 西宮工場
- 1967(昭和42)年
- この工場は明治28年「日本紡織株式会社」として誕生しました。日本紡織を設立したのは明治時代の関西を代表する実業家・松本重太郎と西宮の酒造家・和泉萬助。明治38年に内外綿株式会社に工場が買収されてからは順調に業績を伸ばし、西宮の近代工業発展の原動力となったと言われています。
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